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竹谷の乘願房、東二條院〈後深草天皇皇后〉へまゐられたりけるに、「亡者の追善には何事か勝利おほき」とたづねさせ給ひければ、「光明眞言寶篋印陀羅尼」と申されたりけるを、弟子ども「いかにかくは申し給ひけるぞ。念佛にまさること候ふまじとは、など申したまはぬぞ」と申しければ、「我が宗なればさこそ申さまほしかりつれども、まさしく稱名を追福に修して、巨益あるべしと說ける經文を見及ばねば、何に見えたるぞと重ねて問はせたまはゞ、いかゞ申さむと思ひて、本經のたしかなるにつきて、この眞言陀羅尼をば申しつるなり」とぞ申されける。

たづのおほいどの〈基家〉は、童名たづ君なり。鶴を飼ひ給ひけるゆゑにと申すはひが事なり。

陰陽師有宗入道、鎌倉よりのぼりて尋ねまうできたりしが、まづさし入りて、「この庭のいたづらに廣きことあさましくあるべからぬことなり。道を知るものは植うることをつとむ。ほそ道ひとつのこして、みな畠に作り給へ」と諫め侍りき。誠にすこしの地をも、徒におかむことは益なきことなり。くふ物藥種などうゑおくべし。

多久助が申しけるは、通憲入道〈信西〉舞の手の中に興あることゞもをえらびて、磯の禪師〈靜母〉といひける女に敎へてまはせけり。白き水干にさうまきをさゝせ、烏帽子をひき入れたりければ、男舞とぞいひける。禪師がむすめしづかといひける、この藝をつげり。これ白拍子の根源なり。佛神の本緣をうたふ。その後源の光行、おほくの事をつくれり。後鳥羽院の御作もあり。龜菊に敎へさせ給ひけるとぞ。

後鳥羽院の御時、信濃の前司行長稽古のほまれありけるが、樂府の御論義の番にめされて七