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かなる才覺にて申されけむ。おぼつかなし。唐土の西明寺は北むき勿論なり」と申しき。

さぎちやうは、正月にうちたるぎちやうを、眞言院より神泉苑へ出して燒きあぐるなり。法成就の池にこそとはやすは、神泉苑の池をいふなり。

「ふれふれこゆきたんばのこゆきといふ事、よね搗きふるひたるに似たれば粉雪といふ。たまれこゆきといふべきを、あやまりてたんばのとはいふなり。かきや木のまたにとうたふべし」とあるものしり申しき。昔よりいひけることにや。鳥羽院をさなくおはしまして、雪の降るにかく仰せられけるよし、讃岐のすけが日記にかきたり。

四條大納言隆親卿、からざけといふものを、供御にまゐらせられたりけるを、「かくあやしきものまゐるやうあらじ」と人の申しけるを聞きて、大納言、「鮭といふ魚まゐらぬことにてあらむにこそあれ、鮭のしらぼしなんでふことかあらむ。鮎のしらぼしはまゐらぬかは」と申されけり。

人つく牛をば角をきり、人くふ馬をば耳をきりてそのしるしとす。しるしをつけずして人をやぶらせぬるは、ぬしのとがなり。人くふ犬をば養ひ飼ふべからず。これみなとがあり。律のいましめなり。

相模守時賴の母は、松下禪尼とぞ申しける。守をいれ申さるゝことありけるに、すゝけたるあかり障子のやぶればかりを、禪尼手づから小刀して、きりまはしつゝはられければ、せうとの城介義景、その日のけいめいして候ひけるが、「給はりて、なにがし男にはらせ候はむ。