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さいしたる所を、あるじのひきあけたるに、まどひてほれたる顏ながら、ほそきもとゞりさしいだし、物も着あへず抱きもち、ひきしろひてにぐる、かひどりすがたのうしろ手、毛おひたるほそはぎのほど、をかしくつきづきし。

黑戶は小松の御門位につかせ給ひて、昔たゞ人におはしましゝ時、まさな事せさせ給ひしを忘れ給はで、常にいとなませ給ひける間なり。御薪にすゝけたれば黑戶といふとぞ。

鎌倉の中書王〈宗尊〉にて御鞠ありけるに、雨ふりて後いまだ庭のかわかざりければ、いかゞせむと沙汰ありけるに、佐々木隱岐入道〈政義〉、鋸の屑を車に積みておほく奉りたりければ、一庭に敷かれて泥土のわづらひなかりけり。「とりためけむ用意ありがたし」と人感じあへりけり。この事をある者のかたりいでたりしに、吉田中納言〈藤房〉の、「乾沙の用意やはなかりける」とのたまひたりしかば、はづかしかりき。いみじと思ひける鋸の屑、賤しくことやうのことなり。庭の儀を奉行する人、かわき砂をまうくるは故實なりとぞ。

ある所のさぶらひども、內侍所の御神樂を見て人にかたるとて「寶劔をばその人ぞもち給へる」などいふを聞きて、うちなる女房の中に「別殿の行幸には晝御座の御劔にてこそあれ」と忍びやかにいひたりし心にくかりき。その人ふるき典侍なりけるとかや。

入宋の沙門道眼上人、一切經を持來して、六波羅のあたりやけ野といふ所に安置して、殊に首楞嚴經を講じて、那爛陀寺と號す。その聖の申されしは、「那爛陀寺は大門北むきなりと、江帥の說とていひつたへたれど、西域傳法顯傅などにも見えず、さらに所見なし。江帥はい