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等にも見えず〈とぞイ有〉

四十以後の人、身に灸をくはへて三里を燒かざれば、上氣のことあり。かならず灸すべし。

鹿茸を鼻にあてゝ嗅ぐべからず。ちひさき蟲ありて、鼻より入りて腦をはむといへり。

能をつかむとする人、よくせざらむ程は、なまじひに人にしられじ。うちうちよく習ひ得てさし出でたらむこそいと心にくからめと常にいふめれど、かくいふ人一藝もならひ得る事なし。いまだ堅固かたほなるより、上手の中にまじりて譏り笑はるゝにも耻ぢず、つれなくすぎてたしなむ人、天性その骨なけれども、道になづまず妄にせずして、年をおくれば、堪能のたしなまざるよりは終に上手の位にいたり、德たけ人にゆるされてならびなき名をうることなり。天下のものゝ上手といへども、はじめは不堪のきこえもあり、無下の瑕瑾もありき。されどもその人、道のおきてたゞしく、これを重くして放埒せざれば、世の博士にて萬人の師となること、諸道かはるべからず。

ある人のいはく、年五十になるまで上手に至らざらむ藝をば捨つべきなり。勵み習ふべきゆく末もなし。老人の事をば人もえ笑はず、衆にまじはりたるもあいなく見ぐるし。大かたよろづのしわざは止めて、暇あるこそめやすくあらまほしけれ。世俗のことにたづさはりて、生涯をくらすは下愚の人なり。ゆかしくおぼえむことは學び聞くとも、その趣を知りなば、おぼつかなからずしてやむべし。もとより望むことなくしてやまむは、第一のことなり。

西大寺靜然上人、腰かゞまり眉しろく、まことに德たけたるありさまにて、內裏へ參られた