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高倉院の法華堂の三昧僧、なにがしの律師とかやいふもの、ある時鏡をとりて貌をつくづくと見て、我がかたちのみにくゝあさましきことをあまりに心憂く覺えて、鏡さへうとましき心ちしければ、その後永く鏡をおそれて手にだにとらず、更に人にまじはることなし。御堂のつとめばかりにあひて、籠り居たりと聞き傳へしこそありがたくおぼえしか。かしこげなる人も、人のうへをのみはかりておのれをば知らざるなり。我を知らずして外を知るといふことわりあるべからず。さればおのれを知るを物知れる人といふべし。かたちみにくけれども知らず、心のおろかなるをも知らず、藝の拙きをもしらず、身の數ならぬをも知らず、年の老いぬるをもしらず、病の冒すをもしらず、死の近き事をもしらず、行ふ道のいたらざるをもしらず、身の上の非をもしらねば、まして外のそしりをもしらず。たゞし「かたちは鏡に見ゆ。年は數へてしる。我が身の事知らぬにはあらねど、すべき方のなければ知らぬに似たり」とぞいはまし。かたちをあらため、齡を若くせよといふにはあらず。拙きを知らば、なんぞやがて退かzる。老いぬと知らば、なんぞしづかに身をやすくせざる。行おろかなりと知らば、なんぞ茲をおもふこと茲にあらざる。すべて人に愛樂せられずして衆にまじはるは耻なり。かたちみにくゝ心おくれにして出でつかへ、無智にして大才に交り、不堪の藝をもちて堪能の座につらなり、雪の頭を戴きてさかりなる人にならび、いはむや及ばざることを望み、かなはぬことをうれへ、來らざることを待ち、人におそれ、人に媚ぶるは、人の與ふる耻にあらず。貪る心にひかれて、みづから身をはづかしむなり。貪ることのやまざるは、命ををふる大