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れも鎌倉の年寄の申し侍りしは「この魚おのれら若かりし世までは、はかばかしき人の前へいづること侍らざりき。頭は下部もくはず、切りてすて侍りしものなり」と申しき。かやうのものも世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ。

唐のものは、藥の外はなくとも事かくまじ。書どもはこの國に多くひろまりぬれば、書きもうつしてむ。もろこし船のたやすからぬ道に、無用のものどものみとり積みて、所せくわたしもてくるいとおろかなり。「遠きものを寶とせず」とも、また「得がたき寶をたふとまず」とも、ふみにも侍るとかや。

養ひ飼ふものには馬牛、繫ぎくるしむるこそいたましけれど、なくてかなはぬものなればいかゞはせむ。犬はまもり防ぐつとめ、人にもまさりたれば必あるべし。されど家ごとにあるものなれば、ことさらに求め飼はずともありなむ。そのほかの鳥獸すべて用なきものなり。はしる獸は檻にこめ、くさりをさゝれ、飛ぶ鳥は翼をきり、こに入れられて、雲を戀ひ野山をおもふ愁やむ時なし。そのおもひ我が身にあたりて忍びがたくば、心あらむ人これをたのしまむや。生をくるしめて目をよろこばしむるは、桀紂が心なり。王子猷が鳥を愛せし、林にたのしぶを見て逍遙の友としき。とらへ苦めたるにあらず。「凡めづらしき禽、あやしき獸、國にやしなはず」とこそ文にも侍るなれ。

人の才能は、文あきらかにしてひじりの敎を知れるを第一とす。次には手かくこと、旨とする事はなくともこれを習ふべし。學問にたよりあらむためなり。次に醫術を習ふべし。身を