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にふと思ひしまゝに、「われらが生死の到來唯今にもやあらむ、それを忘れて物見て日をくらす、愚なることはなほまさりたるものを」といひたれば、前なる人ども、「まことにさにこそ候ひけれ。最も愚に候ふ」といひて、みな後を見かへりて、「こゝへいらせたまへ」とて所をさりて呼び入れ侍りにき。かほどのことわり、誰かは思ひよらざらむなれども、をりからの思ひかけぬ心ちして、胸にあたりけるにや。人木石にあらねば、時にとりて物に感ずることなきにあらず。

唐橋中將〈源雅淸〉といふ人の子に、行雅僧都とて、敎相の人の師する僧ありけり。氣のあがる病ありて、年のやうやうたくるほどに、鼻の中ふたがりて、息も出でがたかりければ、さまざまにつくろひけれど、わづらはしくなりて、目眉額なども腫れまどひて、うちおほひければ、ものも見えず、二の舞の面のやうに見えけるが、たゞおそろしく鬼の顏になりて、目は頂のかたにつき、顏のほど鼻になりなどして、後は坊のうちの人にも見えずこもり居て、年久しくありて、猶わづらはしくなりて死にけり。かゝる病もあることにこそ。

春の暮つかた、のどやかに艷なるそらに、いやしからぬ家の奧ふかく、木だちものふりて、庭に散りしをれたる花見過しがたきを、さし入りて見れば,南面の格子皆おろしてさびしげなるに、東にむきて妻戶のよきほどにあきたる、御簾のやぶれより見れば、かたちよげなる男の、年二十ばかりにてうちとけたれど、心にくゝのどやかなるさまして、机の上にふみをくりひろげて見居たり。いかなる人なりけむ、たづねきかまほし。