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でゝはいつはりあり。才能は煩惱の增長せるなり。傳へて聞き、學びて知るはまことの智にあらず、いかなるをか智といふべき。可不可は一條なり。いかなるをか善といふ。眞の人は智もなく德もなく、功もなく、名もなし。誰か知り誰かつたへむ。これ德をかくし愚を守るにあらず、もとより賢愚得失のさかひに居らざればなり。まよひの心をもちて、名利の要を求むるにかくのごとし。萬事はみな非なり。いふにたらず、ねがふにたらず。ある人法然上人に、「念佛のとき睡におかされて、行を怠り侍ること、いかゞしてこのさはりをやめ侍らむ」と申しければ、「目の覺めたらむほど、念佛し給へ」とこたへられたりけるいとたふとかりけり。また「往生は、一定とおもへば一定、不定とおもへば不定なり」といはれけり。これもたふとし。また「うたがひなからも念佛すれば往生す」ともいはれけり。これもまたたふとし。

因幡の國に、何の入道とかやいふものゝむすめ、かたちよしと聞きて、人あまたいひわたりけれども、このむすめたゞ栗をのみ食ひて、更に米のたぐひをくはざりければ、「かゝることやうのもの、人に見ゆべきにあらず」とて親ゆるさゞりけり。

五月五日加茂のくらべ馬を見侍りしに、車の前に雜人たち隔てゝ見えざりしかば、おのおのおりて埒の際によりたれど、ことに人おほくたちこみて分け入りぬべきやうもなし。かゝるをりに、むかひなるあふちの木に法師ののぼりて木のまたについゐて物見るあり。とりつきながらいたうねぶりて、落ちぬべき時に目をさますこと度々なり。これを見る人あざけりあざみて「世のしれものかな、かく危き枝の上にて安き心ありてねぶるらむよ」といふに、我が心