Page:Kokubun taikan 09 part2.djvu/271

このページは校正済みです

我が身のやんごとなからむにも、まして數ならざらむにも、子といふものなくてありなむ。「さきの中書王〈兼明親王〉、九條の太政大臣〈伊通〉、花園左大臣〈有仁〉、皆ぞう絕えむことを願ひ給へり。染殿のおとゞ〈良房〉も、子孫おはせぬぞよく侍る。末のおくれ給へるはわろきことなり」とぞ世繼の翁のものがたりにはいへる。聖德太子の御墓をかねてつかせ給ひけるときも、「こゝをきれ、かしこをたて、子孫あらせじと思ふなり」と侍りけるとかや。

あだし野の露消ゆるときなく、鳥部山の煙立ちさらでのみ住みはつるならひならば、いかにものゝあはれもなからむ。世はさだめなきこそいみじけれ。命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふのゆふべを待ち、夏のせみの春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一とせをくらす程だにもこよなうのどけしや。あかずをしとおもはゞ、千とせを過すとも一夜の夢の心ちこそせめ。すみはてぬ世に、みにくきすがたを待ちえて何かはせむ。命長ければ辱おほし。長くとも四十にたらぬほどにて、死なむこそめやすかるべけれ。そのほど過ぎぬればかたちを愧づる心もなく、人にいでまじらはむことを思ひ、夕の陽に子孫を愛し、さかゆく末を見むまでの命をあらまし、ひたすら世をむさぼる心のみふかく、物のあはれも知らずなりゆきなむあさましき。

世の人の心まどはすこと色欲にはしかず。人の心はおろかなるものかな。にほひなどはかりのものなるに、しばらく衣裳にたきものすと知りながら、えならぬにほひには心ときめきするものなり。久米の仙人の、物洗ふ女のはぎの白きを見て通を失ひけむは、まことに手あし