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徒然草

つれづれなるまゝに、日ぐらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

いでやこの世に生れては、ねがはしかるべきことこそ多かめれ。みかどの御位はいともかしこし。竹の園生のすゑばまで、人間の種ならぬぞやんごとなき。一の人の御ありさまはさらなり、たゞ人も舍人などたまはるきははゆゝしと見ゆ。そのこうまごまでははふれにたれど、なほなまめかし。それより下つ方は、ほどにつけつゝ時にあひ、したり顏なるも、みづからはいみじと思ふらめどいと口をし。法師ばかりうらやましからぬものはあらじ。「人には木のはしのやうに思はるゝよ」と淸少納言が書けるも、げにさることぞかし。いきほひまうにのゝしりたるにつけて、いみじとは見えず。增賀ひじりのいひけむやうに、名聞ぐるしく、佛の御をしへにたがふらむとぞ覺ゆる。ひたぶるの世すて人は、なかなかあらまほしきかたもありなむ。人はかたちありさまの勝れたらむこそあらまほしかるべけれ。ものうちいひたる聞きにくからず、あいぎやうありて詞多からぬこそあかずむかはまほしけれ。めでたしと見る人の心おとりせらるゝ、本性見えむこそ口をしかるべけれ。しなかたちこそ生れつきたらめ、心はなどかかしこきよりかしこきにもうつさばうつらざらむ。かたち心ざまよき人も、ざえ