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 「踏みかよふ峯の梯とだえして雲に跡とふ佐夜の中山」。

此の山をも越えつゝ、猶過ぎ行く程に、菊川といふ所あり。去にし承久三年の秋の比、中御門中納言宗行と聞えし人の、罪ありて東へ下られけるに、此の宿にとまりけるが「昔は南陽縣の菊水、下流を汲んで齡をのぶ。今は東海道の菊川、西岸に宿して命を失ふ」とある家の柱にかゝれたりけりと聞きおきたれば、いと哀にて、其の家を尋ぬるに、火の爲にやけて、かの言のはものこらずと申すものあり。今は限とてのこし置きけむ形見さへ、跡なくなりにけるこそ果敢なき世のならひ、いとゞあはれにかなしけれ。

 「かきつくる形みも今はなかりけり跡は千年と誰かいひけむ」。

菊川をわたりて幾程もなく一村の里あり。二〈こイ〉はまとぞいふなる。此の里の東のはてに、すこしうち登るやうなる奧より、大井川を見渡しければ、遙々と廣き河原の中に、一すぢならず流れ分れたる川せども、とかく入りちがひたる樣にて、すながしといふものをしたるに似たり。中々渡りて見むよりも、よそめ面白くおぼゆれば、かの紅葉みだれて流れけむ、龍田川ならねども、しばしやすらはる。

 「日數ふる旅の哀れは大井川渡らぬ水も深き色かな」。

まへ島の宿を立ちて、岡部のいまずくをうち過ぐる程、かた山の松のかげに立ちよりて、かれいひなど取り出でたるに、嵐冷しく梢にひゞき渡りて、夏のまゝなる旅衣、うすき袂もさむくおぼゆ。