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まし、大和歌を詠じておもひを述べけり。嵐の風はげしきをわびつゝぞ過しける。ある人の云ふ「蟬丸は延喜第四の宮にておはしけるゆゑに、この關のあたりを四の宮河原と名づけたり」といへり。

 「いにしへのわらやのとこのあたりまで心をとむる相坂の關」。

東三條院〈詮子一條御母〉石山に詣でゝ、還御ありけるに、關の淸水を過ぎさせ給ふとて、よませ給ひける御歌、「あまたゝびゆきあふ坂の關水にけふをかぎりのかげぞかなしき」と聞ゆるこそいかなりける御心のうちにかと、哀に心ぼそけれ。關山を過ぎぬれば、打出の濱、粟津の原なんどきけども、いまだ夜のうちなれば、さだかにも見わからず。昔天智天皇の御代、大和國飛鳥の岡本の宮より、近江の志賀の郡に都うつりありて、大津の宮を造られけりときくにも、此の程はふるき皇居の跡ぞかしとおぼえて哀なり。

 「さゞ波や大津の宮のあれしより名のみ殘れるしがの故鄕」。

曙の空になりて、せたの長橋うち渡すほどに、湖はるかにあらはれて、かの滿誓沙彌が、比叡山にて此の海を望みつゝよめりけむ歌〈萬葉卷三拾遺哀傷〉おもひ出でられて、漕ぎゆくふねのあとの白波、まことにはかなく心ぼそし。

 「世の中をこぎゆく舟によそへつゝながめし跡を又ぞ眺むる」。

此の程をも行き過ぎて、野路といふ所に至りぬ。草の原露しげくして旅衣いつしか袖の雫所せし。