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おぼゆ。御かへりごとは、
「それゆゑにとび別れてもあしたづの子を思ふかたはなほぞ悲しき」
ときこゆ。そのついでに、故入道大納言〈爲家〉、草のまくらにも立ちそひて、夢に見えさせたまふよしなど、この人ばかりやあはれともおぼさむとて書きつけて奉る、
「都までかたるもとほしおもひねにしのぶむかしのゆめのなごりを。
はかなしやたびねの夢にまよひ來てさむれば見えぬ人のおもかげ」。
など書きて奉りしを、又あながちにたより尋ねて、かへりごとし給へり。さしも忍び給へりしも、をりからなりけり。
「あづまぢの草のまくらはとほけれどかたれば近きいにしへの夢。
いづくより旅ねのゆかにかよふらむ思ひおきつる露をたづねて」
などのたまへり。夏のほどは、あやしきまでおとづれもたえて、おぼつかなさも一かたならず。都のかたは、志賀のうらなみたち、山三井寺のさわぎなどきこゆるも、いとゞおぼつかなし。からうじて、八月二日ぞつかひまちえ、日ごろよりおきたりける人々の、文どもとり集めて見つる。侍從のさいしやうの君のもとより、「五十首の和歌をよみたりける」とてきよがきもしあへずくだされたり。哥もいとをかしくなりにけり。五十首に、十八首てんあひぬるもあやしく、心のやみのひがめこそあるらめ。その中に、
「こゝろのみへだてずとても旅ごろも山ぢかさなるをちのしら雲」