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〈うカ〉しと思ひてあるに、三四日ばかりありて文あり。あさましうつへたましと思ふ思ふ見れば、「この頃こゝにわづらはるゝ事ありて見參らぬを昨日なむたひらかにものせられ〈るカ〉める。けがらひもや忌むとてなむ」とぞある。あさましうめづらかなる事限なし。たゞ「賜はりぬ」とてやりつ。使こ〈にカ〉人問ひければ「男君になむ」といふを聞くにいと胸ふさがり〈るカ〉。三四日ばかりありてみづからいともつれなく見えたり。何か來たるとて見入れねば、いとはしたなくて歸ること度々になりぬ。七月になりてすまひの頃古き新しきと一くだりづゝ引き包みて「これせさせ給へ」とてはあるものか。見るに目くるゝ心ぞする。古代の人は「あないとほし。よ〈かカ〉しこにはえ仕うまつらずこそはあらめ」。なま心ある人などさし集りて「すゞろはしや。えせでわろからむをだにこそ聞かめ」など定めてかへしやりつるもしるく、こゝかしこになむもてちりてすると聞く。かしこにもいと情なしとかやあらむ。二十よ日音づれもなし。いかなるをりにかあらむ、文ぞある。「參りこまほしけれどつゝましうてなむ。たしかにことあらばおづおづも」とあり。かへり事もすまじと思ふもこれかれ「いと情なし。あまりなり」などものすれば、

 「ほに出でゝいはじやさらにおほよその靡く尾花に任せても見む」〈道綱母〉

たちかへり、

 「ほに出でばまづ靡きなむ花ずゝきこちてふ風の吹かむまにまに」〈兼家〉

使あれば、