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かゝる事は知りしぞ。四十九になりける年こそさは誡めけれ」とて「のぶかたはわびしういはれにたりといふめるは」と笑はせ給ひしこそ物ぐるほしかりける君かなとおぼえしか。こき殿〈義子〉とは閑院の太政大臣の女御とぞ聞ゆる。その御方にうちふしといふ者のむすめ、左京といひてさぶらひけるを、源中將かたらひて思ふなど人々笑ふころ、宮のしきにおはしまいしに參りて、「時々は御とのゐなど仕うまつるべけれど、さるべきさまに女房などもてなし給はねば、いと宮づかへおろかにさふらふ。殿居所をだに賜はりたらむは、いみじうまめに侍らひなむ」などいひゐ給ひつれば、人々「げに」などいふ程に、「誠に人はうちふしやすむ所のあるこそよけれ。さるあたりにはしげく參り給ふなるものを」とさしいらへたりとて、「すべて物きこえず、かた人と賴み聞ゆれば人のいひふるしたるさまに取りなし給ふ」など、いみじうまめだちてうらみ給ふ。「あなあやし。如何なる事をか聞えつる。更に聞きとゞめ給ふことなし」などいふ。かたはらなる人を引きゆるがせば、「さるべきこともなきをほとほり出で給ふさまこそあらめ」とて華やかに笑ふに、これもかのいはせ給ふならむとて、いとものしと思へり。「更にさやうの事をなむいひ侍らぬ。人のいふだににくきものを」といひて引き入りにしかば、後にもなほ「人にはぢがましき事言ひ吿けたる」と恨みて、「殿上人の笑ふとて言ひ出でたるなり」とのたまへば、「さては一人を恨み給ふべくもあらざめる。あやし」などいへば、その後は絕えてやみ給ひにけり。

     むかしおぼえてふようなるもの