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たる人ぞゆゝしき。かくてあれどことなる事なければまだありきもせず。廿日あまりにいと珍しき文にて「佐はいかにぞ。こゝなる人は皆をこたりにたるに、いかなれば見えざらむとおぼつかなさになむ。いとにくゝし給ふめれば、うとむとはなくて、いどみなむ過ぎにける。忘れぬ事はありながら」と、こまやかなるを、あやしとぞ思ふ。かへりごと、問ひたる人〈道綱〉のうへばかりきく〈二字きこえてイ〉はしに「まこと忘るゝは、さもや侍らむ」と書きてものしつ。佐ありきしはじむる日、道に、かの文やりし所行きあひたりけるを、いかゞしけむ、車のとうかゝりてわづらひけりとて、あくる日「よべはさらになむ知らざりける。さても、

  年月のめぐりくるまのわになりて思へばかゝるをも〈りイ〉もありけり」

といひたりけるを取り入れて見て、その文のはしに、なほなほしき手して、あ〈かイ〉ゝす。「こゝにはこゝには」とぢうてんがちにかへしたりけむこそ、なほあら〈め脫歟〉。かくて神無月になりぬ。二十日あまりのほどに、忌み違ふとて、わな〈たイ〉りたるところにて聞けば、かのは〈三字イ無〉かの忌の所には、子產みたなりと人いふ。なほあらむよりはあなにくとも聞き思ふべけれどつれなうて、ある宵のほど〈ひとイ有〉もじだいなどものしたるほどに、せうとゝおぼしき人、近う這ひよりて、ふところよりみちのくに紙にて、引き結びたる文の、枯れたる薄にさしたるをとり出でたり。「あやし。たがぞ」といへば、「なほ御覽ぜよ」といふ。あけてひかげに見れば、心つきなき人の手のすぢにいとよう似たり。書いたる事は、「かのいかなるこまかとありけむはいかゞ。

  霜がれの草のゆかりぞあはれなるこまがへりてもなつけてしがな。