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いさまにと賴み聞えさせながら、はかなき身のほどをいかにと、あはれに思う給ふる」など例よりもひきつくろひて、らうたげに書いたり。返り事は、やうなく常にしもと思ひてせずなりぬ。又の日猶いとほしく若やかなるさまにもありと思ひて、「昨日は人の物忌侍りしに、日暮れてなむ。心あるとやといふらむやうに、おき給へしをりをりにはいかでと思ひ給ふるを、ついでなき身になり侍りてこそ、心し〈一字もありイ〉げなる御はしがきをなむげにと思ひ聞えさせそ〈ずイ〉や、紙の色は晝もやおぼつかなう思さるらめ」とて、これよりぞものしたりけるをりに、法師ばらあまたありてさわがしげなりければさしおきて來にけり。まだしきにこれより、さまかはりたる人々ものし侍りしに、日も暮れてなむ使もまゐりにける。

 「なげきつゝあかしくらせば郭公この卯のはなのかげに鳴きつゝ。

いかにし侍らむ。今宵はかしこまり」とさへあり。返り事は「昨日のかへりにこそ歸〈侍イ〉りけめ。何かさまではとあやし。

  かげにしもなどか鳴くらむ卯の花のえだにしのぶの心とぞ聞く」

とて、うへ書いけちてはしに「かたはなる心ちし侍りや」と書いたり。その程に左京の官うせ給ひぬと物すべかめる。內にも愼み深うて山寺になどしげうて、時々驚かしてみなつきもはてぬ。七月になりぬ。八月近き心ちするに、見る人は猶いとうら若く、いかならむと思ふことしげきにまぎれて、わが思ふことは今は絕え果てにな〈け〉り。七月中の十日ばかりになりぬ。かうの君いとあさり、かれは我を賴みたるかなと思ふ程に、或人のいふやう「こ〈うイ〉まのかんの君は