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とおぼえたり。〈二イ有〉十五日に大夫しもにかしなどにも〈如元〉きほひ行ひなどす。などに〈如元〉すらむと思ふ程につかさめしの事あり。珍しき文にて「うまの佐になむ」と吿げたり。こゝかしこに喜びものするに、その司のかみ、をぢ〈に脫歟〉さへものしたまへば參うでたりける。いとかしこう喜びて、事のついでに殿にものし給ふなる。「姬君はいかゞものし給ふ。いくつにか御年などは」と問ひけり。歸りてさなむと語れば、いかで聞き給ひけむ、なと〈にイ〉心もなく思ひかくべき程にしあらねばやみぬ。』その頃、院〈冷泉院〉ののし〈し衍歟〉りゆみあべしとて騷ぐ。かみも佐〈道綱〉も同じ方に出でゐの〈てイ〉、日々にはいきあひつゝ同じ事をのみのたまへば「いかなるにかあらむ」など語るに二月廿〈七イ〉日の程に夢に見る、平〈原本四字空白或云と脫歟〉ある所に、忍びて思ひ立つ。何ばかり深くもあらずといふべき所なり。野燒きなどする頃の花はあやしう遲き頃なれば、をかしかるべき道なれどまだし。いと奧山は鳥の聲もせぬものなりければ鶯だに音せずと〈木イ〉のみぞ珍らかなるさまに涌きかへり流れたる。いみじう苦しきまゝに、辛うじてある人もありかし。うき身一つをもて煩ふにこそはあめれと思ふ思ふ、いりあひ吿ぐるほどにぞ至りあひたる。みあかしなど奉りて、人すくばかり待ちゐするほど、いとゞ苦しうて夜あけぬと聞く程に雨降り出でぬ。いとわりなしと思ひつゝ、法師の坊に至りて、「いかゞすべき」などいふほどに、ことごと明けはてゝ、簑笠やと人は騷ぐ。我はのどかにて眺むれば、前なる谷より雲しづしづと昇るに、いともの悲しうて、

 「思ひきや天つそらなるあま雲を袖して分くる山踏まむとは」