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大夫に、今ひとつ、とかくしてかの所に、
「我が袖は引くとぬらしつあやめ草人のたもとにかけてかわかせ」。
御返り事、
「引きつらむ袂はしらずあやめ草あやなき袖にかけずもあらなむ」
といひたなり。六日のつとめてより、あや〈めイ〉はじまりて三四日降る。川とまさりて人流るといふ。それもよろづをながめ思ふに、いといふぞ限にもあらねど今はおも馴れにたる事などはいかにもいかにも思はぬに、この石山に逢ひたりし法師の許より、「御いのりをなむする」といひたる。返り事に「今は限に思ひはてにたる身をば佛もいかゞし給はむ。唯今はこの大夫を人々しくてあらせ給へなどばかりを申し給へ」とかくにぞ何とをりあらむ。かきくらして淚こぼるゝ。十日になりぬ。今日ぞ大夫につけてふみある。「惱ましき事のみありつゝ、覺束なき程になりにけるを、いかに」などぞある。返り事、又の日物するにぞつくる。「昨日は立ちかへり聞ゆべく思ひ給へしを、このたよりならでは聞えむ事もびなき心ちになりにければなむ。いかにとのたまはせたるは何かよろづことわりに思ひ給ふる〈る衍歟〉べき。こゝろら〈みイ〉ねば、なかなかいと心やすくなむなりにたる。風だにさむくと聞えさすれば、ゆゝしや」と書きけり。「引かれて賀茂て〈のイ〉いづみにおはしつれば、御かへりも聞えで歸りぬ」といふ。「めでたの事や」とぞ心にもあらでうちいはれける。この頃、雲のたゝずまひ、しづ心なくて、ともすれば田子のもすそ思ひやらるゝ。郭公の聲鳴き〈あ脫歟〉かす。物思はしき人は、いこそ寢られざなれ。