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方の儀式も、これに劣る事あらじかし。これをあなめでた、いかなる人など、思ふ人も聞く人も、いふせ〈をイ〉きくぞいとゞものは覺えけむかし。さる心ちなからむ人に引かれて、又く〈二字知足イ〉院のわたりにものする日、大夫も引き續けてあるに、車どもかへるはどに、よろしきさまに見えける、女車のしりに續きそめにければ、後れずおも〈も衍歟〉きければ、家を見せじとにやあらむ、とく紛れいきににけるを、追ひて尋ねはじめて、又の日かくいひやるめる〈りイ〉、
「思ひそめ物をこそおもへ今日よりはあふひ遙になりやしぬらむ」
とてやりたるに、さらにおぼえずなどいひけむかし。されど、又、
「わりなくもすぎ立ちにける心かな三輪の山もとたづねはじめて」
といひやりけり。大和〈へイ有〉立つ人なるべし。かへし、
「三輪の山まち見る事のゆゝしさに杉立てりともえこそ知らせね」
となむ。かくてつごもりになりぬれば、人は卯の花の蔭にも見えず、音だになくてはてぬ。廿八日にぞ例のひもろぎのたよりに「なやましき事ありて」などありき。五月になりぬ。「さうぶの根長き」などこゝなる若き人騷げば、徒然なるに取り寄せてつらぬきなどす。「これかしこに、同じほどなる人に奉り〈れイ〉」などいひて、
「かくれぬに生ひそめにけるあやめ草知る人なしに深きした根を」〈道綱母〉
と書きて、なかにむすびつけて、大夫の參るにつけてものす。かへりごと、
「菖蒲草根に顯るゝ今日だに〈こそイ〉はいつかと待ちしかひもありけれ」〈兼家〉。