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やうなどもにくし。梢ばかりを見るなむをかしきとて中門よりとに植ゑさせ給へる、何よりもいみじく思しめしよりたりと人は感じ申しき。又撫子の種をついぢの上にまかせ給へりければ思ひかけず四方にいろいろに唐錦をひきかけたるやうに咲きたりしなどを見給ひしはいかにめでたく侍りしかば、入道殿のくらべ馬せさせ給ひし日はむかへ申させ給ひけるに、渡りおはします日の御よそほひは更なりおろかなるべきにもあらねど、それにつけても誠に御車のさまこそ又世にたぐひなくさふらひしか。御くつに至るまで、唯人の見物になるばかりこそ後にはもてありくと承りしか。あて御繪遊ばしたりしさまにけうあり。さははしり車の輪には薄墨にぬらせ給ひて、大きさの程やなどしるしには墨をにほはせ給へりし、げにかくこそ書くべかりけれ。あまりにはしる車はいつかはくろさのほどやは見え侍る。又たかんなのはを男のおよびごとに入れて、めかゝうしてちごをおどせば、顏赤めてゆゝしうおぢたるかた、また德人、たよりなしの家の內の作法などかゝせ給へりしが、いづれもいづれもさぞありけむとのみあさましうこそ候ひしか。この中に御覽じたる人もやおはしますらむ。

     太政大臣兼通のおとゞ

これ九條殿の二郞君、堀川の攝政と聞えさせき。攝政し給ふこと六年、安和二年正月七日宰相にならせ給ふ。閏五月廿一日宮內卿とこそは申しゝか。天祿二年壬二月廿九日中納言にならせ給ひて、大納言をばへで、十一月廿七日內大臣にならせ給ふ。いとめでたかりしことな