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申されけれども、思ひもよらぬよしをかたく申されけるとかやとぞ聞えし。伯耆の御所へは人々參り集ふ。上達部殿上人數しらず。さる程にあづまにもかねて心しけるにや、尊氏のすゑの一族なる、新田小四郞義貞といふもの、今の尊氏の子四つになりけるを大將軍にして武藏國より軍を起してけり。この頃のあづまの將軍は守邦親王にて坐します。御後見つかうまつる高時入道、貞顯入道、城介入道圓明、長崎入道圓基などいふものども驚き騷ぎて、高時入道おとゝに四郞左近大夫泰家といひし、今は入道したるをぞ大將に下しける。五月十四日鎌倉をたちてむかふ。其の勢十萬餘騎。高時入道の一ぞう附き從ふものそこら皆ひろごりて鎌倉はじまりし賴朝の世、時政より今に到るまで多くの年月をつめり。僅なる新田などいふ國人にたやすくいかでかは亡さるべきと覺えしに、程なく十五日にかたき既に鎌倉に近づくよし聞えて家々を毀ちさわぎのゝしる。世の既に滅するにやと覺えしとぞ人は語り侍りし。四郞左近大夫入道軍にうち負けゝるにや、從ふ武士ども殘りなく新田が方へつきぬれば、えさらぬものどもばかり五六百騎にて十六日の夜に人りて鎌倉へ引き歸る。僅に中一日にてかくなりぬる事夢かとぞおぼえし。かくて日々の軍にうち負けゝれば、おなじき廿二日、高時以下腹切りてうせにけり。さて都には伯耆よりの還御とて世の中ひしめく。まづ東寺へ入らせ給ひて事どもさだめらる。二條の前のおとゞ道平めしありて參り給へり。こたみ內裏へ入らせ給ふべき儀、重祚などにてあるべけれども、璽の箱を御身にそへられたれば、唯遠き行幸の還御の儀式にてあるべきよし定めらる。關白をおかるまじければ二條のおとゞ氏長