Page:Kokubun taikan 07.pdf/743

このページは校正済みです

したるに、いとかたじけなしと思ひてとりあへず五百餘騎の勢にて御迎にまゐれり。又の日賀茂の社といふ所にたち入らせ給ふ。都の御社おぼしいでられていとたのもし。それより舟上寺といふ所へおはしまさせて九重の宮になずらふ。これよりぞ國々のつはものどもに御かたきを亡すべきよしの宣旨つかはしける。比叡の山へものぼされけり。かくて隱岐にはいでさせ給ひにし晝つ方よりさわぎあひて、隱岐の前の守追ひて參るよし聞ゆれば、いとむくつけく思されつれど、こゝにも其の心していみじう戰ひければ引き返しにけり。京にもあづまにも驚き騷ぐさま思ひやるべし。正成が城のかこみにそこらの武士どもかしこにつどひをるに、かゝる事さへそひにたれば、いよいよあづまよりも上りつどふめり。三月にもなりぬ。十日あまりのほど俄に世の中いみじうのゝしる。何ぞと聞けば播磨の國より赤松なにがし入道圓心とかやいふもの先帝の勅に從ひて攻めくるなりとて都の中あわて惑ふ。例の六波羅へ行幸なり。兩院も御幸とて上下たちさわぐ。馬車走りちがひ、武士どものうちこみのゝしりたるさまいとおそろし。されど六波羅の軍つよくてその夜はかのものども引き返しぬとて少ししまづれるやうなれど、かやうにいひ立ちぬれば猶心ゆるびなきにや、そのまゝ院も御門もおはしませば春宮もはなれ給へる、よろしからぬ事とて、廿六日六波羅へ行啓なる。內のおとゞ御車にまゐり給ふ。傅は久我右のおとゞにいますれど、大かたの儀式ばかりにてよろづこの內大臣殿御後見つかまつり給へば、いまだきびはなる御程を後めたがりてとのゐにもやがてさぶらひ給ふ。御修法のために法親王たちもさぶらはせ給へり。こゝもか