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のたばかりにやありけむ、花山院の大納言師賢を山へつかはして忍びて御門のおはしますよしにもてないて、かの兩法親王事行ひ給ひつゝ、六波羅のつはものどものかこみをも防がせ給ふ。その日は大納言も大塔の前座主の宮もうるはしきものゝふ姿にいでたゝせ給ふ。卯花をどしの鎧に鍬形の兜たてまつりて大矢おひてぞ坐する。妙法院の宮はすゞしの御衣の下に萠黃の御腹卷とかや着給へり。大納言はからの香染の薄物の狩衣にけちえんに赤き腹卷をすかして、さすがに卷繪の細太刀をぞはき給ひける。六波羅より御門こゝにおはしますと心えて武士どもおほくまゐりかこむ。山法師もたゝかひなどして海東とかやいふつはもの討たれにけり。事のはじめにひんがしうせぬるめでたしなどぞいふめる。かゝれども御門笠置におはしますよし程なくきこえぬれば、謀られ奉りにけるとて山の衆徒もせうせう心がはりしぬ。宮々も逃げいでたまひて笠置へぞまうで給ひける。大納言は都へまぎれおはすとて、夜ふかく志賀の浦を過ぎ給ふに、有明の月くまなくすみわたりて寄せかへる浪の音もさびしきに、松ふく風の身にしみたるさへとりあつめ心ぼそし。

  「思ふ事なくてぞみましほのぼのとありあけの月の志賀のうら波」。

その後辛うじてぞ笠置へはたどり參られける。かやうの事どもゝ例のはや馬にてあづまへ吿げやりぬ。唯今の將軍はむかし式部卿久明親王とて下り給へりし將軍の御子なり。守邦の親王とぞ聞ゆる。相摸の守高時といふは病によりて、いまだわかけれど一とせ入道して今は世の大事どもいろはねど鎌倉のぬしにてはあめり。心ばへなどもいかにぞや。うつゝなくて