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左大臣師忠、理髮春宮權大夫具守つとめらる。御諱煕仁と申しき。持明院殿より女房二なくきよらにしたてゝ十二人まゐる。東の御方も院の御車にて殿上人北面召次などいと美々しうて參り給へり。御門春宮いづれもいと美しき御ありさまなめり。新院は盡せず皇后宮のおはしまさましかばとのみしほたれがちに、思し忘るゝ世なき御心やなぐさむとこれかれまゐらすれど、をさをさなずらへなるもなし。新陽明門院も始は御おぼえあるやうなりしかど、次第にかれがれなる御事にて御ひとりねがちなり。故皇后宮の御はらからの中の君も御面かげや通ひたらむとなつかしさに忍びてねんごろにのたまひしかば參らせ奉り給へれど、いとしもなくて姬宮一所ばかりとり出で給へりしまゝにてやみにき。姬宮をば大宮院の御傍にぞかしづき聞え給ふ。かくて弘安元年になりぬ。十月ばかり又二條內裏に火出で來ていみじうあさまし。萬里小路殿はありし火の後又つくられて、今年の八月に御わたましにて新院すませ給へれど、內裏燒けぬればこの院又內裏になりぬ。うちつゞき火のしげさいと怖し。その頃大宮院いと久しくなやませ給へば、本院も新院も常にわたり給ひて夜などもおはしませば、異御腹の法親王姬宮たちなども絕えず御とぶらひにまうでさせ給ふ。中に故院の位の御時、勾當の內侍といひしが腹に出でものし給へりし姬宮、後には五條院と聞えしいまだ宮の御程なりしにや、いと盛にうつくしげにてせちにかくれ奉り給ふを、新院あながちに御心にかけてうかゞひ聞え給ふ程に、此の御惱の頃いかゞありけむ、いみじう思の外にあさましとおぼしなげく。かの草枕よりはまことしうにがにがしき御事には姬宮までいでき〈如元〉