Page:Kokubun taikan 07.pdf/602

このページは校正済みです

なり。たゞ事にあらずとて院の御前に陰陽師七人召して御占行はる。重き御つゝしみと申せば御修法どもはじめ、山々にも御いのり仕うまつるべきよしことさらに仰せらる。院のうへの御ありさまのよろづにめでたくおはしますを思ふには、何の御つゝしみもなでう事かあらむとぞ覺え侍る。位おりさせ給ひにし後は、年を經て春の中に必ずまづ石淸水に七日御こもり、その中に五部の大乘經供養せさせ給ふ。御下向の後はやがて賀茂に御幸、平野北野などもさだまれる御事なり。寺には嵯峨の淸凉寺ほうりんうづまさなどに御幸ありて、寺司に賞おこなはれ、法師ばらに物かづけ、すべて神を敬ひ佛を尊びさせ給ふ事、「きしかたも行く末もためしあらじ」とぞ世の人申しあひける。

     第八 北野の雪〈四字イ無〉

文永も三年になりぬ。う月に蓮華王院の供養に御幸あり。一院は赤色のうへの御ぞ、新院は大靑色の御袍たてまつれり。女院〈大宮〉の御車に平准后も參り給ふ。人だまひ三輛は綿入れる五つぎぬなり。御車の尻に仕うまつられたる上﨟だつ人のにや、あはせの五つぎぬ藤のうはぎ袖口いださる。御幸には上達部は皇后宮大夫師繼を上首にて十人、殿上人十二人、御隨身ども藤山吹をつけたり。ゐかひみまやの舍人まで世になくきらめきたり。常のけんぶつにすぎたるべし。行幸は當日の午の時ばかりなるに諸司百官殘るなし。左右の大臣薄色蘇芳などなり。右大將通雅花橘の下がさぬ、權中納言公藤おなじ色、左大將家經蘇芳の下がさね萠黃の上のはかま、侍從中納言爲氏、權中納言通基、左衞門督通賴、衣笠宰相中將經平これらは皆蘇芳