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ける車にめしうつりて、春日富小路に公相の大納言のおはする家に行幸なる。そのほどにぞ攝政殿をはじめおほきおとゞ、左大臣、內大臣よりしも殘りなく人々まゐり集ひ給ふ。院も御車引き出でゝ見奉らせ給ふ。かゝるほどに閑院殿より春日はかたはゞかりありとて院のおはします萬里小路殿へひきかへして行幸あり。夜明けはてゝのち又前のおほきおとゞ〈さねうじ〉の冷泉富小路へ行幸なりてしばし內裏になりぬ。內の燒くることはこれをはじめにもあらず、世あがりての事はさしおきぬ。天德四年村上のさばかりめでたかりし御代よりこのかた既に廿餘度になりぬるにや、ひじりの御代にしもかゝる事は侍りしかど、承元に燒けにし後は久しくこの四十四年はなかりつるに、去年の冬御釜燒け損じて又かくうち續きぬるをいとあさましう思す。何よりも御門の御車に奉りて出でさせ給へるをいたくれいなき事とかやとて人々かたぶき申す。院もおどろきおぼされて、古き事ども廣く尋ねられなどすべし。院も內もはひわたるほどのちかさなれば、御とのゐの人々など日頃よりも參りつどひて御旅の雲ゐなれどなかなかいとけせうなり。北の對のつまなる紅梅のいとおもしろく咲きたるが、院の御前より御覽じやらるゝほどなれば、雅家の宰相の中將していと艷になよびたる薄葉にかゝせ給ひて、院の上、

  「色も香もかさねてにほへ梅の花こゝのへになるやどのしるしに」

とてかの梅に結びつけさせらる。御返し辨の內侍うけたまはりて申すべしときゝ侍りしをな〈のイ有〉めなりといふ事にて、おとゞ今出川より申されけるとかや。それも忘れ侍りぬるこそ口