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うとり給へるよ。この殿の御北の方にては批把大納言延光の御女ぞ坐せる。女君二所男君三人ぞおはせし。女君は三條院の東宮にておはしましゝ折の女御にて宣耀殿と申していと時に坐しましゝ。をとこみこ四所、女宮二人。さて女君は三條院の東宮にて坐しましゝ時參り生れ給へりし程に東宮位につかせ給ひて又の年長和元年壬子四月十八日后に立ち給ひて皇后宮と申す。小一條の御母なり。又今一所の女君は父の殿うせ給ひにし後、御心わざに冷泉院の四のみこ帥宮と申す御うへにて二三年ばかりおはせし程に、宮、和泉式部に思し移りにしかばほいなくて小一條に歸らせ給ひし後、このころ聞けば心えぬ有樣のことのほかなるにてこそおはすなれ。〈いきふとこそかしやイ有〉小一條左大將殿の御おもて起し給ふは、皇后宮おはしますにはぢがましくいとほしきは今一人の御むすめにてこそあめれ。この宮の御腹の一のみこ敦明親王とて式部卿の宮とぞ申しゝほどに、長和五年正月廿九日三條院おりさせ給へば、當代位に即かせ給ひて、この式部卿の宮、東宮に立たせ給ひにき。御年二十三。但、道理あることゝ皆人思ひ申しゝほどに、院うせさせ給ひて後二年ばかりありていかゞ思し召しけむ、宮たちと申しゝをり、よろづに遊びならはせ給ひて、うるはしき御有樣いとくるしく、いかでかゝらでもあらばやとおぼしなられて皇后宮にかくなむおぼえ侍ると申させたまふを、いかでかはげにさもとはおぼさむずる。すべてあさましくあるまじき事とのみ諫め申させ給ふに、おぼしあまりて入道殿に御消息ありければ參らせ給へるに、御物がたりこまやかにて「この位去りて唯心安くてあらむとなむ思ひ侍る」と聞えさせければ、「更に更にうけたまはら