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れて、院の御製、

  「いそのかみふるきを今にならべこしむかしの跡を又たづねつゝ」。攝政殿〈よしつねのおとゞ〉

  「しき島ややまとことのは海にしてひろひし玉はみがゝれにけり」。

つぎつぎずんながるめりしかど、さのみはうるさくてなむ。何となくあけくれて承元二年にもなりぬ。十二月廿五日二の宮御かうぶりし給ふ。修明門院の御腹なり。この御子を院かぎりなくかなしきものに思ひ聞えさせ給へれば、になくきよらをつくし、いつくしうもてかしづき奉り給ふ事なのめならず。つひにおなじき四年十一月に御位につけ奉り給ふ。もとの御門、今年こそ十六にならせ給へば、いまだ遙なるべき御さかりに、かゝるをいと飽かずあはれとおぼされたり。永治のむかし鳥羽の法皇、崇德院の御心もゆかぬにおろし聞えて、近衞院をすゑ奉り給ひし時は御門いみじうしぶらせ給ひて、その夜になるまで勅使を度々奉らせたまひつゝ、內侍所劔璽などをも渡しかねさせ給へりしぞかし。さてその御憤のすゑにてこそ保元のみだれもひき出で給へりしを、この御門はいとあてに大どかなる御本性にて、おぼしむすぼゝれぬにはあらねども、けしきにも漏し給はず。世にもいとあへなき事に思ひ申しけり。承明門院などはまいていと胸いたくおぼされけり。その年のしはすに太上天皇のそんがうあり。新院と聞ゆれば、父の御門をば今は本院と申す。猶御まつり事はかはらず。今の御門は十四になり給ふ。御いみな守成と聞えしにや。建曆二年十一月十三日大甞會なり。新