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てまつれ」とて爲時を越前になさせ給へりしにぞみかどの御心ゆかせ給ひて、こまうどゝふみ作りかはさせむとおぼしめしつる御けしきありけるに合はせて、こしに下りて、から人とふみつくりかはされける。

  去國三年孤舘月

  歸程萬里片〈竹イ〉帆風

  畫鼓雷奔天不

  綵旗雲聳地生風

などぞきこえ侍りし。

     まことの道

大內記のひじりはやんごとなき博士にて、文作る道類ひ少くてよにつたへけれど、心はひとへに佛の道に深くそみて、あはれびの心のみありければ、大內記にて記すべきことありて、催されて內に參れりけるに、左衞門の陣などの方にや、女の泣きて立てるがありけるを、「何事のあれば、かくは泣くぞ」と問ひければ、「あるじの使にて、石の帶を人に借りてもてまかりつるが、道におとして侍れば、あるじにも重く戒められむずらむ、さばかりのものを失ひつる、淺ましく悲しくて歸る空もなければ、思ひやる方もなくてそれを泣き侍るなり」と申しければ、心のうち推し量るに誠にさぞ悲しからむとて、わがさしたる帶をときて取らせたりければ「元の帶にはあらねども空しく失ひて申すかたなからむよりも、おのづから罪もよろしくや侍る」とて「これをもてまからむずる嬉しさ」と手をすりてとりてまかりにけり。さて片隅に帶もなくて隱れゐたりける程に、事始まりければ、おそしおそしと催されて、みく