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れ奉りて參り給へりければ、少しこつなくおぼしめさるれど、さりとてあるべき事ならねば書きて罷りいで給ふに、女のさうぞくかづけさせ給ふを、さらでもありぬべくおぼさるれど捨つべき事ならねば、そこらの人の中をわけ出でられけるなむ猶懈怠の失錯なりける。のどかなるけさ疾くもうち參りて書かれたらましかば、かゝらましやはとぞ見る人もおもひ、自らもおぼしたりける。むげのその道のなべての下﨟などにこそかやうなる事はせさせ給はめと殿をもそしり申す人々ありけり。その大貳の御むすめ、いとこの懷平の左衞門督の北の方にておはせしは經任君の母上、大貳に劣らず女手かきにておはすめる。大貳の御妹は法住寺〈ためみつの〉のおとゞの北の方にておはす。その御腹の女君は花山院の御時の弘徽殿の女御、又入道中納言の北の方にて、又をのこ子は今の中宮大夫貞信卿とぞ申すめる。小野宮のおとゞの三郞〈是は二郞とぞ。大よしとも。〉敦敏少將のおなじ腹の君、右門衞督までなり給へりし。たゞとしとぞ聞えしかし。その御男君、播磨守これふんのむすめの腹に三ところおはせし。太郞高遠の君、大貳にてうせ給ひにき。二郞かねひらとて中納言右衞門督までなり給へりし、その御をのこ子なり。今の右兵衞督經通の君、また〈おい大納言ときこゆ。經通、資平の母は源中納言保光の女子。〉侍從宰相資平の君、いまの皇太后宮權大夫にておはすめり。そのたゞとしの君の御をのこ子、御おほぢ小野の宮のおとゞ御子にし給ひて實資とつけ奉り給ひていみじうかなしうし給ひき。此のおとゞの御名の文字なり、さねもじは」」といふ程もあまりざえがりたりや。「「わらは名はたいかく丸とぞつけたりける。その君こそ今の小野宮の右大臣と申して、いとやんごとなくておはすめり。〈賢人右大臣の事なり。九十三にてうせ給ふ。〉