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り据ゑ給へりしかばにや、「御末のつかさ昇りがたくおはする」と申す人もあるとかや。九條殿の北の方の宮もびんなきことなれど、それはたゞ宮ばかりにおはしき。これはいつきに居たまへる人を、籠めすゑ申したまへりし、たぐひなくや。業平の中將も、夢かうつゝかの事にてやみにけり。道雅の三位も、「ゆふしでかけしいにしへに」などいひて、しのびたることにこそ侍りけれ。これはぬすみ出だして、とりすゑ給へれど、業平の中將にはかはりて、前のなれば、さまであやまりならずやあらむ。齋宮の女御なども、又いつきのおり給ひてきさきになり給へるもおはせずやはある。又大臣までぬしのぼり給ひしかば、末のかたるべきにあらず。おのづからの事なるべし。堀河殿は、僧子も多くおはしき。小野法印、山の座主など聞こえ給ひき。姬君は、富家の入道おとゞの北の方にておはせし、後には御堂の御前などきこえて、御ぐしおろし給へりき。おとうとの姬君は子にし給ひて、御堂をも讓り給へるは、堀河の大納言の子の辨に具し給へりけるとかや。それもさまかへておはするとぞ。又近衞のみかどの御はゝ女院も、左のおとゞの御むすめの生みたてまつり給へると聞こえ給ひき。この堀河殿は、七十になり給ふ御年、御子の堀河の大納言殿の右兵衞の督と申しゝ、父のおとゞの御賀せさせ給ふとて、長治元年しはすの廿日あまり、堀河殿にて、御賀したてまつり給ふときゝ侍りしこそ、むかしのこと聞き侍るやうにおぼえ侍りしか。その殿にまゐりし僧のかたり侍りしは、瑠璃のみくにの佛の、人のたけにおはしますかき奉りてこそ、彼の岸のみのりに、かねの文字に七卷、たゞの文字の御經なゝそぢ、寫したてまつりて、僧綱有職など七人請ぜ