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たりければ、かならずおくれ奉ることなかりけるに、ゐなかさぶらひと盛重とふたりともに具して、出でたまひけるに、馬に乘れりけるものゝおりざりければ、ゐなか人、ともしたるつい松して、うちおとさむとしけるを、猛きものゝふども多く具したりけるが、御車によらむとしけるを、盛重御車のもとにて、「皇后宮の大夫殿のおはしますぞ。過ち仕うまつるな」といひければ、まどひおりて、「皆々まかりのきね」といひければ、過ぎ給ひにけり。次の日の夕暮に、賴治といひし武者のおほいとのへ參りて御門の方にて盛重たづね出だして「よべかしこく御恩かぶりて、過を仕うまつるらむに」とて、かしこまり申しに參りたるなり。「かくとはな申したまひそ」といひけれど、おほい殿に申したりければ、召してみきすゝめなどしたまひけるとぞ。盛重が子盛道といひしは語りける。

     堀河の流

堀河の左のおとゞの御子は、太郞にては師賴大納言とておはせし、御母中將實基の君の御むすめなり。文など博く習ひ給ひて、才おはする人にて坐しき。中辨より宰相になり給ひて、ひら宰相にて前の右兵衞の督とて年久しくおはしき。年よりてぞ、中納言大納言などに引續きて、程なくなり給ひし。近衞のみかど、東宮にたゝせ給ひしかば、母きさきの御ゆかりにて、大夫になり給へりき。歌をぞ口疾くよみ給ひける。早くけさうし給ふ女の百首よみ給ひたらば逢はむといふありけるに、題をうちより出だしたりけるに從ひて、よひより曉になるほどによみはてたまひたりけるに、女かくれにけるぞいとくちをしかりける。周防の內侍がゆ