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す。これより外の君だち皆三十よ四十にすぎ給はず。その故はたゞ事にはあらず、この北野の御歎になむあるべき。顯忠大臣の御子、重輔の右衞門佐とて坐せしが御子なり。今の三井寺の別當心譽僧都、山階寺の權別當快公僧都などこの君達こそは物し給ふめれ。敦忠の中納言をのこゞあまたおはしける中に兵衞佐なにがしの君とかや申しゝ、その君出家して徃生し給ひにきとか。その僧の御子なり、いはくらの文慶僧都は。敦忠公の御むすめは枇杷の大納言の北の方にておはしきかし。あさましき惡事を申し行ひ給へりし罪により、このおとゞの御末はおはせぬなり。さるはやまとだましひなどはいみじくおはしましたるものを、延喜の世のなかの作法したゝめさせ給ひしかど、くわさをえしづめさせ給はざりしに、この殿制を破りたる御さうぞくのことの外にめでたきをして、うちに參り給ひて殿上にさぶらひ給ふを、御門こじとみより御覽じて、御氣色いとあしくならせ給ひて、職事を召して、「世間の過差の制きびしきところに、左のおとゞの一の人といひながら美麗殊の外にて參れる、びんなきことなり。速にまかり出づべきよしおほせよ」とおほせられければ、うけたまはるもいかなる事にかとおそれおぼえけれど、參りてわなゝくわなゝくしかじかの事と申しければ、いみじくおどろきて、かしこまりうけたまはりて御隨身のみさきまゐるも制し給ひて急ぎまかり出で給へば、御前どもゝあやしと思ひてなむ。さて本院の御門一月ほどさゝせて御簾のとにも出で給はず、人などの參るとも勘當の重ければとて逢はせ給はざりけり。さりしにこそ世の中に過差はたひらぎたりしか。內々にうけたまはりしかば、さてばかりぞしづまら