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も、詞も及ばぬ事なるべし。

     ひなの別れ

彼の通憲の大とこのゆかり、浦々に流されたる、皆召しかへして、世みな靜まりたれば、內の御まつりごとのまゝなりしに、みかどの御母方、又御めのとなどいひて、大納言經宗、別當惟方などいふ人ふたり、世を靡かせりしほどに、院の御ため、御心にたがひて、あまりの事どもやありけむ。ふたりながら內に侍ひける夜、あさましき事どもありて、おもひたゞしきさまに聞こえけるを、法性寺のおほき大臣の、せちに申しやはらげ給ひて、おのおの流されにき。此のころは召し返されて、大臣の大將までなりたまへるとこそうけたまはれ。さまであやまたずおはしけるにや。宰相は憂きめ見たりとて、かしらおろされにけり。それも歸りのぼりておはするとかや。鳥羽の院うせさせ給ひしほどに、世の亂れいできてより、かたがた流され給ひし人、たびたびに其の數おはしき。初めのたび、讃岐の院の御ゆかり、おほいどのがたなど、廿四五人ばかりやおはしけむ。四年ばかりありて、かの衞門督とかや聞こえし人の亂れに少納言の大とこの子ども八九人ばかり浦々へときこえ侍りき。事なほりしかば、その人々は召し返して、又の年の春、師仲の源中納言とかや、衞門の督に同じ心なるとて、あづまの方へおはすと聞き侍りき。しか有りし程に、その頃かの大納言、宰相とふたり阿波の國鳴〈長イ〉門の方などにおはしき。その年の六月にやありけむ。出雲守光保その子光宗などいひし源氏の武者なりし人、筑紫へつかはして、はてはいかになりにけるとかや。その人の女とかや、いも