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りもおはしましける。堀川院は地ぎやうのいといみじきなり。大饗のをり、殿ばらの御車のたちやうなどよ、尊者の御車は川よりひんがしにたて、牛はみはしのひらきばしらにひきつなぎ、こと上達部の車をば川より西にたてたるがめでたきをば、尊者の御車のべちにことに見ゆることは、こと所は侍らぬものをやと見給ふるに、この賀やう院殿にこそおされにて侍るめれ。方四町にて四面おほぢなる京中の家は冷泉院のみとこそ思ひ候ひつれ。世の末になるまゝにまさる事のみこそ出でまうでくめれ。この昭宣公のおとゞは陽成天皇の御をぢにて宇多の御門の御時、准三宮の位にて年官年爵を得たまふ。朱雀院幷に村上のおほぢにておはしまし、世覺えやんごとなしと申せばおろかなりや。御をのこ子四人おはしき。太郞左大臣時平、次郞左大臣仲平、四郞太政大臣忠平」」といふに、繁樹がけしきことになりて、まづうしろの人の顏うち見わたして、「「それぞこのいはゆる翁がたからの君、貞信公におはします」」とて扇うちつかふかほもちことにをかし。「「三郞に當らせ給ひしは從三位して宮內卿兼平の君と申してうせ給ひにき。さるは御母いとあてにおはす。みつよしの式部卿のみこの御むすめにて、かへすがへすもやんごとなくおはすべかりしかど、この三人の大臣たちを世の人三平と申しき。

     左大臣時平

このおとゞは基經のおとゞの御太郞なり。御母四品彈正尹人康親王の御むすめ。醍醐のみかどの御とき、この大臣左大臣の位にて年いと若くておはします。菅原のおとゞ右大臣の位に