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の宮、生みたてまつらせ給へり。御年廿三にて、此のみかどは生みたてまつらせ給へり。應德元年九月廿三日、三條の內裏にてかくれさせ給ひにき。御年廿八とぞ聞こえ給ひし。村上の御母、梨壺にてうせ給ひてのち、內にてきさきかくれ給ふ事これぞおはしましける。廿四日に備後守經成のぬしの四條高倉の家にわたしたてまつりて、神無月の一日ぞ、鳥部野におくりたてまつりて、烟とのぼり給ひにし、悲しさたとふべきかたなし。まだ三十にだに足らせ給はぬに、多くの宮たち生みおきたてまつり給ひて、上の御おぼえ類ひもおはしまさぬに、はかなくかくれさせ給ひぬれば、世の中かきくらしたるやうなり。白河のみかどは、くらゐの御ときなれば、廢朝とて、三日は、日の御座のみすもおろされ〈あげられずイ〉、世のまつりごともなく、なげかせ給ふ事、から國の李夫人楊貴妃などの類ひになむ聞こえ侍りし。御なげきのあまりに、多くの御堂御佛をぞ作りてとぶらひたてまつらせ給ひし。ひえの山のふもとに、圓德院ときこゆる御堂の御願文に、匡房中納言の、「七夕の深きちきりによりて、驪山の雲に悵望する事なかれ」とこそかきて侍るなれ。飯室には勝樂院とて御堂つくりて、又の年のきさらぎに、供養をせさせ給ひき。八月には法勝寺の內に、常行堂つくらせ給ひて、仁和寺の入道の宮して供養せさせ給ふ。同日醍醐にも圓光院とて供養せさせ給へり。九月十五日、白川の御寺にて御佛事せさせ給ふ。廿二日御正日に、同じ御寺にて行はせ給ふ。事にふれて悲しきこと、見たてまつる人まで、胸あかぬ時になむあるべき。朝な夕なの御心ち、「御垣の柳も池のはちすも、むかしを戀ふるつまとぞなり侍りける。寬治元年しはすのころ、皇太后宮を贈りたてま