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はしませばかぎりありて讓り奉り給はめ、我が御子のおはしまさぬにてもなきに、おとゝの御子を東宮にさへ立て奉らむとし給ひし御心はありがたかりしことなり。

     第五十四淳和天皇〈承和七年八月日崩。年五十五。葬物集陵。〉

次の御門淳和天皇と申しき。桓武天皇の御三の御子。御母は參議百川の女旅子なり。弘仁元年九月に東宮に立ちたまふ。御年二十五。平城天皇の御子高嶽親王の御かはりなり。同十四年四月廿八日に位に即きたまふ。御年三十八。世をしりたまふ事十年なり。天長二年十一月四日丙申御門嵯峨の法皇の四〈三イ〉十の御賀したまひき。ことし浦島の子はかへれりしなり。もたりし玉の箱をあけたりしかば紫の雲西ざまへまかりて後、いとけなかりけるかたちたちまちに翁となりてはかばかしく步みをだにもせぬほどになりにき。雄畧天皇の御代にうせて今年三百四十七年といひしに歸りたりしなり。同四年に智證大師生年十四にて讃岐國よりのぼり給ひて比叡の山へのぼり給ひき。はゝは弘法大師の御めいなり。同九年十一月十二日に弘法大師高雄より高野へかへり居給ふべきよし申し給ひしかば、太上天皇弘福寺たまはせき。高野より都に通ひ給はむ道のやどり所にしたまへとぞの給はせし。弘福寺は天武天皇の御願なり。同十年二月廿八日に御門位を御甥の東宮にゆづり申し給ひて西院にうつりおはしましき。

     第五十五仁明天皇〈嘉祥三年三月廿一日崩。年四十一。葬深草山陵。〉

次の御門仁明天皇と申しき。嵯峨天皇の第二の御子。御母太皇大后橘嘉智子なり。弘仁十四