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壁の二ま侍るなるに義之といひし手かきの物を書きたりけるが、年久しくなりてくづれにければ、又改められてのち大師に書き給へと唐土の御門申し給ひければ、五つの筆を御口左右の御足手にとりて壁に飛びつきて、一度に五くだりになむ書き給ひける。この國に歸り給ひて南門の額は書き給ひしぞかし。さて又應天門の額を書かせ給ひしに、かみのまろなる點を忘れ給ひて、門にうちてのち見つけ給ひて驚きて筆をぬらして投げあげ給ひしかばその所につきにき。見る人手をうちあざむ事かぎりなく侍りき。只空に仰ぎて文字を書き給ひしかばその文字あらはれき。これのみならず事にふれてかやうのこと多く侍れど、唯今思ひ出さるゝ事を片はし申すなり。十一月に中務卿伊與親王、御門を傾け奉らむとはかり奉るといふ事聞えて、母の夫人ともに河原寺の北なりし所に籠められ給へりしに、みづから毒を食ひてうせ給ひにき。その親王管絃の方勝れ給へりき。その後世の中心ちおこりて大嘗會もとまりにき。同三年慈覺大師生年十五にて比叡の山にのぼり給ひて、傳敎大師の御弟子になり給ひしなり。もとは下野國の人におはす。いまだ下野におはせしに傳敎大師を夢に見奉りてあけくれいかで大師の御許へ參らむと思ひ給ひしに、遂に人につきて上り給ひて、山に登りて見奉り給ひしに夢の御すがたにいさゝか違ひ給はざりき。同四年に御門春の頃より例ならず思されてをこたり給はざりしかば、位を御をとゝの東宮にゆづり奉りて太上天皇と申しき。御子の高嶽親王を東宮に立て申したまふ。

     第五十三嵯峨天皇〈承和九年七月十五日崩。年五十七。葬嵯峨西山陵。〉