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申さばおそりも侍り。この事は百川の傳にぞこまかに書きたるとうけたまはる。この御門たゞ人にはおはしまさゞりしにこそ。かやうの事も世の末をいましめむがためにやおはしましけむとぞおぼえ侍りし。

     第五十光仁天皇〈天應元年十二月廿三日崩。年七十三。〉

次の御門光仁天皇と申しき。天智天皇の御子に施基皇子と申しゝ第六子におはす。母は贈太政大臣紀諸人の女、贈皇后橡姬なり。神護景雲四年八月四日稱德天皇うせさせおはしましにしかば位を繼ぎ給ふべき人もなくて、大臣以下おのおのこの事を定め給ひしに「天武天皇の御子に長親王と申しゝ人の子に大納言文屋淨三と申す人を位に即け奉らむ」と申す人々ありき。又「白壁王とてこのみかどのおはしましゝを即け奉らむ」と申す人々もありしかども、猶淨三をと申す人のみ强くて、既に即き給ふべきにてありしに、この淨三「我が身そのうつはものにかなはず」と、あながちに申し給ひしかば「そのおとゝの宰相大市と申しゝを、さらば即け申さむ」と申すに、大市うけひき給ひしかば、既に宣命を讀むべきになりて、百川、永手、良繼、この人々心を一つにて目をくはせて密に白壁王を太子と定め申すよしの宣命を作りて宣命使をかたらひて大市の宣命をば卷きかくして、この宣命を讀むべきよしをいひしかば、宣命使庭にたちて讀むを聞くに、事俄にあるによりて諸臣たちはからく、白壁王は諸王の中に年たけたまへり、また先帝の功ある故に太子と定め奉るといふよしを讀むを聞きて、この大市を立てむといひつる人々あさましく思ひてとかくいふべき方もなくてありし