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太上天皇のたまはく「仲麿さきの東宮のこのかみの鹽燒の王を位に即けむといふことをはかりて官のおしてをさして國々に遣して人の心をたぶろかし、關をかためつはものをおこし罪もなかりけるこのかみの豐成の大臣を讒し申して位を退けたりけり。この事仲麿が僞れる事とぞ知り給ひぬ〈如元〉。豐成を元の如く大臣の位にをさめ給ふ。またこの禪師朝夕に仕うまつれるありさまを見るに、いとたふとし。われ髮をそりて佛の御袈娑をきてあれども、世の政事をせざるべきにあらず。佛も經に國王位に即き給はむをりは菩薩戒をうけよとこそ說きおき給ひたれ。これをおもへば尼となりても世の政事をせむに何のさはりかあるべき。しかれば御門の出家していませむに又出家してあらむ大臣もあるべしと思ひて、この道鏡禪師を大臣禪師と位を授け奉る」とのたまはせて、十月九日太上天皇つはものをおこして內裏をかぐみ給ひしかば、宮の內に侍ひし人々皆遁げうせしかば御門御母又そのつかうまつる人二三人ばかりを相具して、かちにて圖書寮の方におはして立ち給へりしにこそは、少納言迎ひ奉りて位をおろし奉るよしの宣命をば讀みかけ奉りしか。その御ことばには位を保ち給ふべきうつはものにおはせぬに合せて、仲麿とおなじ心にてわれをそこなはむと謀り給ひけり。しかれば御門の位を退け奉りて親王の位をたまふとて淡路の國へ流し奉りたまひてき。心うく侍りしことなり。

     第四十九稱德天皇〈神護景雲三年八月四日崩。年五十二。葬添下郡高野陵。〉

次の御門稱德天皇と申しき。これは孝謙天皇のまたかへり即き給へりしなり。天平寳字八年