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はゆゝしき事ども侍りき。孝謙天皇の御時東宮は新田部親王の子道祖王とておはせしに、聖武天皇うせさせ給ひて諒闇にてありしに、この東宮この程をも憚りたまはず、女の方にのみ亂れたまへりしかば、孝謙天皇をりふしもしり給はず「かくなおはせそ」と申させ給ひしかども、つゆそのことに從ひ給はざりしかば、天平勝寶九年三月廿九日大臣以下この東宮は聖武天皇の御すゝめにて立て奉りき。しかるにその事をも思ひしり給はず、かくみだりがはしき心のし給へるをば「いかゞしたてまつるべき」とのたまはせしに、人々みな「唯仰せ言にしたがふべし」と申しゝかば、東宮をとりたてまつり給ひて、四月に大臣以下を召して「東宮には誰をか立て奉るべき」と定め申すべきよしおほせ言ありしに、右大臣豐成式部卿永手は「さきの東宮の御兄鹽燒の王立ち給ふべし」と申しき。攝津大夫珍努左大辨古麿は「池田王立ち給ふべし」と申しき。大納言仲麿は「臣を知るは君にはしかず。子をしるは父にはしかず。唯御門の御心にまかせ奉る」とおのおの思ひ思ひに申しゝかば、御門ののたまはく「御子だちの中に舍人新田部、この二人はむねとおはせし人なれば、新田部親王の子を東宮に立てたりつれども、かくをしへに從ひ給はずなりぬれば、今は舍人親王の子を立て申すべきに、おのおのとがどもおはす。その中に大炊王は年若くおはせど、させる咎聞えず、この人を立てむと思ふはいかゞあるべき」とのたまはせき。大臣以下皆仰せごとにしたがふべきよし申しき。このさだめより先に仲麿の大納言、この大炊王をむかへとり奉りて、わが家にすゑ奉りたりしが、內よりの御使その殿にまゐりて迎へたてまつりて東宮には立ち給ひしなり。大炊