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りてとりおろし侍りし子なり。さてかく申しあひたるにこそ」といひしを聞くに、我が子の鷲にとられにし月日なり。この事を聞くにあさましく覺えて、泣きかなしびて親子といふ事知りにき。人の命のかぎりある事はあさましく侍る事なり。

     第卅八孝德天皇〈白雉五年十月十日崩。年五十九。葬河內國大坂磯長陵。〉

次の御門孝德天皇と申しき。皇極天皇の御弟。御母欽明天皇の御孫吉備姬なり。乙巳の歲六月十四日位に即きたまふ。世をしり給ふ事十年なり。皇極天皇は「位をわが御子天智天皇のいまだ皇子と聞えしに、讓り奉らむ」とのたまひしを、皇子「あるべきことに侍らず」と申し給ひて、鎌足に「御門かゝる事をなむのたまはせつる」といひあはせ給ひしに、鎌足、「この御門の御子、御をぢの皇子を越え奉りて、いかでかその先に位をつぎ給ふべき。世の人のうけ申さむこともありがたく侍るべし」と申し給ひしかば、みこ我が御心にかなひておぼしければあながちに申し返し給ひしかば、この御門にゆづり奉り給ひしを、これもまた度々返し奉り給ひき。又天智天皇のこのかみの御子に讓り奉られしに、御子あるべき事に侍らずとて、出家して吉野山へ入り給ひにき。二人の御子あながちにかく返し奉り給ひしかば、遂にこの御門は位に即き給ひしなり。かくて鎌足、大臣の位になずらへて內臣となむ始めて申し侍りし。大化二年に道登といひしものゝ、宇治橋は渡しはじめたりしなり。この御時に元興寺に智光賴光といふ二人の僧ありき。幼くより同じ所にて學問をす。賴光身にするつとめもなく又人にあひて物などいふ事もなし。唯徒にして月日をすぐす。智光あやしみをなして「いか