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次の御門皇極天皇と申しき。敏達天皇のひこにおはします。舒明天皇の后にておはしき。御母欽明天皇の御孫に、吉備姬と申し侍りしなり。壬寅の年正月十五日位に即き給ふ。世をしり給ふ事三年。女帝におはします。七月に世の中ひでりしてさまざまの御祈侍りしかども、そのしるし更になし。大臣蝦夷と申しゝは蘇我馬子の大臣の子なり。この事を歎きてみづから香爐をとりて祈りこひしかどもなほしるしなかりき。八月になりて御門河上に行幸し給ひて、四方を拜み、天に仰ぎて祈りこひ給ひしかば、忽に神なり雨くだりて五日をへき。世の中皆直り百穀ゆたかなりき。いみじく侍りし事なり。十一月十一日蘇我の蝦夷の大臣の子入鹿その罪といふ事もなかりしに、聖德太子の御子孫廿三人をうしなひ奉りてき。軍を起していかるがの宮を圍みて攻め奉りしに、太子の御子に大兄王と申しゝ、けものゝ骨をとりて御殿籠りし所におきて、われは逃げて生駒山に入り給へりしに、入鹿が軍火をはなちていかるがの宮を燒きて灰の中を見しに物の骨ありき。これを大兄王のなりと思ひて歸りにき。この大兄王六日といひしにこの所に歸りきたり給ひて、香爐をさゝげて誓ひ給ひしかば、煙雲にのぼりて後仙人天人のかたちあらはれて西にむかひて飛び去りたまひにき。光をはなち空に樂の聲聞えしかば、これを見聞きし人は遙に禮拜をなしき。入鹿が父の大臣これを聞きて「罪なくして太子の御後をうしなひ奉れり。われら久しく世にあるべからず」と驚き歎き侍りき。三年と申しゝ三月に天智天皇の中大兄皇子と申しゝ、法興寺にて鞠をあそばし給ひし程に御沓の鞠につきて落ちて侍りしを、鎌足のとりて奉り給へりしを皇子うれしきことに