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月になりて、太子かの大臣もろともに軍を起して守屋と戰ひたまふ。守屋が方のいくさ數をしらざりしかば、太子の御方の軍おぢおそれて三度までも退きかへりき。その時に太子大誓願をおこし、ぬるでの木をとりて四天王をきざみ奉りて頂の上におき奉りて「今はなつ所の矢は四天王の放ち給ふところなり」とのたまはせて、舍人をして射させしめ給ひしかば、その矢守屋が胸にあたりて立所に命を失ひつ。秦河勝をして首を斬らしめたまふ。守屋が妹は蘇我の大臣のめにて侍りしかば、その妻の謀にて守屋はうちとられぬるなりとぞ、その時の人は申しあへりし。さてこの守屋を射殺して侍りしとねりをば、赤擣とぞ申し侍りし。水田一萬頃をなむたまはせし。かくて今年天王寺をば造りはじめられしなり。

     第卅四崇峻天皇〈五年崩。年七十二。葬大和國倉橋山岡陵。〉

次の御門崇峻天皇と申しき。欽明天皇の第十二の御子。御母稻目大臣の女小姉君姬なり。丁未の年八月二日位に即き給ふ。御年六十七。世をしり給ふ事五年。位に即き給ひて明くる年の冬、御門、聖德太子を呼び奉りて「汝よく人を相す。われを相し給へ」とのたまひしかば、太子「めでたくおはします。たゞし橫ざまに御命の危みなむ見えさせおはします。心しらざらむ人を宮の中へ入れさせ給ふまじきなり」と申し給ひしかば、御門「いかなる所を見てのたまふぞ」とおほせられしに、太子「赤き筋御眼をつらぬけり。これは傷害の相なり」と申し給ひしかば、御門御鏡にて見給ひしに、申し給ふ如くにおはしましゝかば大に驚きおそりおはしましき。かくて太子人々に「御門の御相は前の世の御事なればかはるべき御事にあらず」