Page:Kokubun taikan 07.pdf/238

このページは校正済みです

みな口を塞がずなりにき。かくて寺田やくることなかりしかば、寺の僧、この男法師になる事をゆるしてき。世の人道塲法師とぞ申しゝ。

     第卅三用明天皇〈二年崩。葬大和國磐餘池上陵。〉

次の御門用明天皇と申しき。欽明天皇の第四の御子。御母大臣蘇我宿禰稻目の女妃堅鹽姬。乙巳の年九月五日位に即き給ふ。世をしり給ふ事二年。位に即き給ひて明くる年聖德太子父みかどを相し奉りて「御命ことのほかに短く見えさせ給へり。政事をよくすなほにし給ふべし」と申し給ひき。かくて次の年の四月に、父御門御心ち例ならずおはせしに、太子夜晝附きそひ奉りて聲だえもせず祈り奉り給ひき。御門「大臣以下三寶を崇め奉らむ。いかゞあるべき」と仰せられあはせ給ひしに、守屋は「あるべき事にも侍らず。我が國の神を背きていかでかこと國の神をば崇むべき」と申しき。蘇我の大臣は「唯仰せ事にしたがひて崇め奉らむ」と申しき。御門蘇我の大臣のことに從ひ給ひて法師を內裏へ召しいれられしかば、太子大きによろこび給ひて、蘇我の大臣の手をとり淚をながし「三寳の妙理を人しることなくしてみだりがはしく用ゐ奉らざるに、大臣佛法を信じ奉るいといとかしこき事なり」とのたまひしを、守屋大きに怒りて腹たちにき。太子人々にのたまはく「守屋因果を知らずして今ほろびなむとす。悲しきことなり」とのたまひしを、人ありて守屋に吿げきかせしかば、守屋いとゞいかりをなしてつはものをあつめさまざまのましわざどもをしき。この事聞えて太子の舍人をつかはして守屋にかたよれる人々を殺させ給ひしほどに、四月九日御門うせさせ給ひにき。七