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るとて「敬禮救世觀世音傳燈東方粟散王」と申しき。太子又眉間より光をはなち給ひき。かくて人々にのたまひき「われ昔もろこしにありし時、日羅は弟子にてありしものなり。常に日を拜み奉りしによりてかく身より光をいだすなり。のちの世に必ず天にうまるべし」とのたまひき。十三年と申しゝ九月に、百濟國より石にて造りたる彌勒をわたし奉りたりしを、蘇我馬子の大臣、堂をつくりてすゑ奉りき。今元興寺におはします佛なり。十四年と申しゝ三月に、守屋の大臣御門に申さく「先帝の御時より今にいたるまで世の中の病いまだをこたらず。蘇我の大臣佛法を行ふゆゑなるべし」と申しゝかば、佛法を失ふべきよし宣旨下りにき。守屋みづから寺にゆきむかひて堂を切りたふし、佛像を破りうしなひ火をつけて燒き、尼の着る物をはぎ、しもとをもちて打ちし程に、空に雲なくして大きに雨ふり風ふきゝ。御門も守屋も忽に瘡をわづらひ天下に瘡おこりて命をうしなふもの數をしらず。その瘡をやむ人身をやき切るが如くになむおぼえける。佛像を燒きし罪によりてこのやまうおこれりしなり。六月に蘇我の大臣病久しくいえず。「猶三寳をあふぎ奉らむ」と申しき。御門「しからば汝ひとりおこなふべし」とのたまはせしかば喜びてまた堂塔をつくりき。佛法はこれよりやうやう弘まりはじまりしなり。かくて八月十五日に御門はうせさせ給ひにき。この御時とぞおぼえ侍る、尾張の國に田を作るものありき。夏になりて田に水まかせむとせし程に、俄に神なり雨降りしかば、木の下にたち入りてありし程に、その前にいかづち落ちにき。その形幼き子のごとし。この男すきをもちて打たむとせしかば、いかづち「われを殺すことなかれ。必