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とりて讀みたりしこそいみじきことにて侍りしか。御門めでほめ給ひてその王は御前近く常に侍ふべきよしなど仰せられき。二年と申す二月十五日聖德太子東に向ひて掌をあはせて「南無佛」とのたまひき。御年二つにこそはなり給ひしか。三年三月三日父の皇子聖德太子を愛し奉りて抱き給へりしにいみじくかうばしくおはしき。その後多くの月日をすぐるまでそのうつり香失せ給はざりしかば宮のうちの女房たち、われもわれもと爭ひいだき奉り侍りき。六年十月と申しゝに、百濟國より經論又あまた渡り給へりしを、太子「これを見侍らむ」と御門に申し給ひしかば、御門その故を問ひ給ひ、太子申し給はく「昔もろこしの衡山に侍りしに佛敎は見給へりき。今その經論を奉りて侍るなれば見給へらむと思ひ給ふるなり」と申し給ひしかば、御門あさましとおぼしめして「汝は六歲になりたまふ。いつのほどにもろこしにありしとはのたまふぞ」と仰事ありしかば、太子「前の世の事のおぼえ侍るを申すなり」と申し給ひし時に、御門をはじめ奉りて聞く人手をうちあざみ申しき。法華經はことしわたり給へりけるとぞうけたまはりし。七年と申しゝ二月に、太子よろづの經論を披き見給ひて「六齋日は梵天帝釋おり下り給ひて國の政を見給ふ日なり。ものゝ命を殺す事をとゞめたまへ」と申し給ひしかば、宣旨をくだし給ひき。今年太子七歲にぞなり給ひし。八年と申しゝ十月に新羅より釋迦佛をわたし奉りしかば御門悅び給ひて供養したてまつりき。山階寺の東金堂におはしますはこの佛なり。十二年と申しゝ七月に、百濟國より日羅といふ人來れりき。太子あひ給ひて物がたりをし給ひしほどに、日羅身より光をはなちて太子を拜み奉