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次の御門欽明天皇と申しき。安閑天皇の御兄〈弟歟〉。御母皇后手白香なり。癸亥の年くらゐにつき給ふ。世をしりたまふこと十三年。十三年と申しゝに百濟國より佛經わたりたまへりき。みかどよろこび給ひてこれを崇め給ひしに、世の中の心ちおこりて人おほくわづらひき。尾興の大連といひし人「佛法を崇むるゆゑにこの病起るなるべし」と申して寺を燒きうしなひしかば、空に雲なくして雨ふり、內裏やけ、かの大連うせにき。この後さまざまの佛經猶渡りたまひき。繼體天皇の御世にもろこしより人わたりて佛を持したてまつりて崇め行ひしかども、その時の人唐土の神となづけて佛とも知り奉らず、又世の中にもひろまり給はずなりにき。この御世よりぞ、世の人佛法といふ事は知りそめ侍りし。三十三年と申しゝに聖德太子はうまれ給ひき。御父の用明天皇はこの御門の第四の御子と申しゝなり。太子の御母の御夢に金の色したる僧の「われ世をすくふ願あり。しばらく君が腹にやどらむ」との給ひしかば、御母「かくのたまふは誰にかおはする」と申し給ひき。その僧「われは救世菩薩なり。家はこれより西の方にあり」とのたまひき。御母申したまはく「我が身はけがらはし。いかでかやどりたまはむ」とのたまふに、この僧「けがらはしきを厭はず」とのたまひしに、しからばとゆるし奉り給ひしに從ひて母の御口におどり入り給ふとおぼして、驚き給ひたりしに御喉に物ある心ちし給ひて孕み給へりしなり。八月と申しゝに腹の內にてもののたまふ聞え侍りき。このころほひに宇佐の宮は顯れ始めおはしましき。よしなき事に侍れどもこの御時とぞおぼえ侍る、野干をきつねと申し侍りしは。事のおこりは、美濃國に侍りし人、顏よき妻を