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おはしましき。

     第廿七武烈天皇〈八年崩。年十八。葬大和國傍丘勞杯丘北陵。〉

次の御門武烈天皇と申しき。仁賢天皇の御子。御母皇后春日の大娘なり。仁賢天皇七年正月に東宮に立ちたまふ。御年六歲。戊寅の年十二月に位に即き給ふ。御年十歲。世をしり給ふ事八年。そのほど人を殺す事朝夕のしわざとしたまふ。孕める人の腹をさきわりてその子を見たまひ、人の爪をぬきていもをほらせ、人を木にのぼせて落してころし、或時は人を水にいれてほこにて刺し殺し、或時は女をはだかになして板の上にすゑて、馬のゆゝしきわざを見せさせ給ふに、そのかたに入りたる女は板をうるほすを、御門これをにくみてやがて殺し給ひき。さなきをば召して宮づかへすべきよしの仰せありき。かやうのあさましく心うき事多かりし御世なり。御年十八にてうせ給ひにき。御子もおはせず。

     第廿八繼體天皇〈二十五年崩。年八十二。葬攝津國二島藍野陵。〉

次の御門繼體天皇と申しき。應神天皇第八の御子隼總別皇子と申しき。その御子を大迹王と申しき。その御子を私斐王と申しき。又その御子に彥主人の王と申しゝ王の子にて、この御門はおはしましゝなり。御母垂仁天皇の七世の御孫振姬なり。丁亥の年二月に位に即き給ふ。御年五十八。世をしり給ふ事二十五年。武烈天皇うせ給ひてのち位を繼ぎ給ふべき人なきことを、大臣をはじめて一天下の人なげきて、仲哀天皇の五代の御孫丹波國におはすときこゆ。かの王を迎へ奉りて位に即け奉らむとて、つかさつかさ御迎へにまゐりしを、遙に見